札幌光星中学校・札幌光星高等学校

宗教講話2026

2026年(令和8年)4月21日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

 おはようございます。昨日夕方の地震や津波で皆様方の故郷や知り合いの人たちへの被害や影響はありませんでしたか?しばらくは後発地震に注意しましょう。
 新年度が始まって2週間ほどたちましたが、皆さんお元気ですか?新入生の皆さんは若干の不安を抱えながらの光星学園でのスタートだったかもしれませんが、毎朝正門そばに立って笑顔で出迎えてくれる駒井校長先生の姿によって元気づけられている人も多いのではないでしょうか。ところで、中庭のエゾヤマザクラに2日ほど遅れて、正門そばのソメイヨシノも開花しました。まだ満開には数日ありそうですが、わずかな時間を精一杯咲ききって、道行く人の目を楽しませ惜しまれながら散っていく桜の花からも、皆さんに向けて「がんばってね」のエールが送られているように感じます。
 さて、今年度最初の宗教講話の時間です。中学1年生の皆さん、3カ年コースの高校1年生の皆さんにとっては初めての宗教講話になりますから、どんな内容なのかまだわからないでしょうが、先日新入生の皆さんにお渡しした『新約聖書』の中のどれかの文書から短い個所を選び、それに関連した10分から15分くらいのお話をさせていただくという形式で展開されるのが通例となっています。

聖書の言葉『ルカによる福音書』6章46~49節(「家と土台」)
 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。

 今からおよそ2000年前のイスラエルの地は、ローマ帝国の支配下にありました。よく訓練され統率のとれたローマ軍が主要な街に駐屯しにらみをきかせていました。多神教を奉ずる国々に取り囲まれながらも唯一の神への信仰を長年保ち続け、自分たちが神に選ばれた民族であることを誇りとしてきたイスラエルの人々にとって、ローマ皇帝を神とあがめるような異教徒に統治されている状況は、多少の自治は認められていたとはいえ、あまり喜ばしいものではなかったと思われます。
 ときどき血気盛んな者が現れローマからの独立を呼びかけて反乱を企てることもあったようですが、奮闘むなしくすぐに鎮圧されるのがほとんどでした。それでも、どこかに人々の注目を集める説教師がいると聞けばその人のもとに集まり、鬱屈した自分たちの心を熱くしてくれないかと熱心に耳を傾ける人々の姿がありました。
 時に希望に満ちた励ましの言葉や人々の心に刺さるような力あふれる言葉を語り、時には奇跡的に病気の人を癒す力も見せつけるイエス・キリストのまわりにも多くの群衆が集まってきたようです。ある人たちはもしかしてイエスの口から「さあ、武器を取って立ち上がろう。ローマ人をこの地から追い払おう。」という号令が発せられる時を心待ちにしていたかもしれません。しかし、イエスの口からそうした檄が飛ばされることはありませんでした。それどころか、「敵をも愛しなさい。」「右のほおを打たれたら左のほおを出しなさい。」というような、期待外れな言葉が語られる場合がほとんどでした。また、心底からイエスを通して働かれる神の力による癒しを願ってイエスのもとに集まる人々だけでなく、ただ奇跡を見られたらしめたものだと言わんばかりの野次馬根性で「先生、先生。」とか「主よ、主よ。」と呼びながら、イエスの後を追っかける人たちもいたようです。そういう人たちに向かってイエスは語ります。「わたしの行う業や語られる言葉の表面的な目新しさに目を奪われ、ただ感心するだけで終わりにしないでほしい。実際にわたしの教えを実行してみようと汗を流す努力をしてほしい。わたしの口から語られる言葉が本当にわたしがいつも主張しているように神様のお考えに沿った揺るがない堅固な生き方につながるのか、まことの幸せに至る道なのか、自分でもゆっくり確かめながら、わたしの言葉や行いを受け止めなさい。そうすれば、たとえ暴風雨や干ばつが来ようと、ローマ人からの迫害や圧政があろうと、何も恐れることはないよ。」イエス自身、人々からの称賛の声にも、罵詈雑言にも振り回されませんでした。常に神のお考えがどこにあるのかを追求し、それに従って生きようとする姿勢を貫いていました。
 中学生や高校生の時期はたくさんのことを学ぶように求められます。しっかり学べているか、理解が定着できているかを確認する試験も次々に待ち構えています。ついつい点数という結果を欲しがってしまうかもしれません。誰かの模範解答の丸暗記などの手段で良しとしたくなるかもしれません。世の中もできるだけ時間をかけずにいかに素早く解答を示せるか競争しているような状況です。でも、そうした雰囲気に流されず、しっかりと腰を据えてよく考えてみることが大事になってきます。先生が教えてくれることやまわりの仲間の意見を聞いて、いったん自分でもわかったような気になっているけれど、本当にその答えでいいのか、なぜその答えが出てきたのか、もっといい答えはないのか、じっくり確かめる時間も大切ではないでしょうか。
 勉強以外の普段の行動においても、青少年期は仲間外れになることへの恐れから、誰かの意見に身を任せたり、まわりの声にあおられて本意でもない行動を選んだりする場合もよくあるようです。小さいつぶやき声のようなものかもしれないけれども自分の心の中にある良心の声に耳を傾けながら、仲間がどう言おうとも間違っていると感じる行動は選ばない、やるべきだと思う行動は周囲から冷やかされようとも実践する、そんな勇気を持ちたいものです。あるいは、もっと本質的な問いかけ、なぜ人は学ぶのか、何のために生きているのか、そうした根源的な問いの答えを求めて模索し思索を深めることもとても意義深いことです。自分に向き合い、人間という存在に向き合い、本質を問うていく姿勢が、今後の自分というものの骨格を、土台を確かに作っていくことは間違いありません。若い年齢の時に、苦労を嫌がり、表層的なものの獲得で満足するような姿勢ができあがってしまうと、大人になってもそこから抜け出せなくなってしまうように思います。新たな自分への脱皮を目指して、今という時を大切にお過ごしください。