札幌光星中学校・札幌光星高等学校

宗教講話2024

2024年(令和6年)4月15日の宗教講話

札幌光星学園理事長
神父 山﨑 政利

 おはようございます。今日は暑さを感じるくらいの一日になりそうです。今年度最初の宗教講話の時間です。新入生にとっては初めての宗教講話になりますから、どんな内容なのかまだわからないでしょうし、聖書もまだ手元にない状態ではありますが、今年も宗教講話の時間では、基本的に新約聖書の中からどこかの箇所を選んでお読みした後、その箇所に関連した短い話をいたします。

聖書の言葉『マルコによる福音書』16章14~18節
 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」


 新入生の皆さん、入学式の日から1週間が経ちましたが少しは学校に慣れましたか?その他の学年の人たちはいかがでしょう、元気に新年度を始めることができましたか?皆さんはそれぞれの願いや目的を胸に抱いて光星学園に集まってきていることと思いますが、光星での学園生活が、皆さんにとって喜びや出会いの機会となったり、皆さんの内にある夢や可能性が大きく花開く場となってくれることを願っています。
 先ほどお読みした聖書の箇所は、十字架の上で息絶えて墓に葬られていたイエスが、復活して弟子たちに姿を現し、ご自身が宣教活動を通して伝えようとした人々を真の幸せに導くためのメッセージ=福音を、あなたがたもすべての人に宣教するようにと送り出している場面です。その時から今日までの2000年間、イエスの弟子たち及び弟子たちの後に続く多くの人たちが、このイエスからの宣教命令を胸に全世界に飛び出しました。
 今日の宗教講話では、そのようなイエスからの呼びかけに応えようとして、1868年にフランスから28歳で来日したカトリックのパリ外国宣教会の一員であるド・ロ神父を紹介します。彼は長崎や横浜で活動しましたが、特に1914年に亡くなるまでの33年間、長崎の外海地方と呼ばれていた貧しい地区に赴任してからの活動が称賛をもって語り伝えられています。外海にある出津という集落はわたしの故郷でもあるのですが、今でも故郷では親しみをこめて“ド・ロさま”あるいは“ド・ロさん”と呼ぶ人が多いです。
 彼はフランスのノルマンディー地方のヴォシュロール村の貴族の家に生まれますが、フランス革命の混乱の中多くの貴族が生命や財産を奪われるのを目の当たりにした父親は、自分たちの子がどういう困難に直面しても生き抜いていけるようにと、幼い子らにもカンナやノコなどの工具を使いこなせるように教えたそうです。汗を流すことをいとわない父親と信仰心の篤い母のもと、信仰心と慈愛の心豊かで、また工作や土木建築などの実学に深い関心を持つ青年として成長していきます。それらの才能や気質、日本に向かうに当たって親から渡された24万フランもの多額の餞別は、彼のユーモアあふれる人柄とも相まって、日本で司祭として働くようになってから、大いなる実りを産み出していきます。
 彼は、日本最初となる石版印刷の技術を持ち込んで、祈祷書や宗教暦や教えの手助けとなるような絵を印刷し、布教活動に利用しました。また、それまでに身につけていた建築や土木工学の知識をもとに、現在でも大浦天主堂横にしっかり残っている国指定の重要文化財である旧ラテン神学校も建てました。このとき、彼の建築を手伝った日本人大工の中に、鉄川与助がいます。彼は、ド・ロ神父から学んだ西洋建築技術にさらに創意工夫を重ねて、後に各地に幾多の美しい教会を建てていくことになります。
 また、1874年に長崎の浦上地区を赤痢や天然痘の疫病が襲った時には、信徒・非信徒の区別なく救助するために、私費を投じてヨーロッパから取り寄せた医薬品や医療機器を手に奔走しました。なお、このときたくさんの孤児が出ましたが、未婚の数名の女性信徒を励まし、孤児院を開設させました。これはたぶん日本における児童福祉施設としては、最初のものと言ってもいいのではないかと思います。
 ド・ロ神父の多様な才能が余すところなく発揮されるのは、1879年から赴任することになる外海地区においてでした。この地域は、平地は少なく、土地もやせており、人々は昔からとても貧しい暮らしぶりでした。この地域の多くが小作農家で、孤児や捨子も多く、また眼前に広がる海での漁で一家の働き手を失った家族が悲惨な生活を余儀なくされているのを見て、着任早々に授産場(後に“救助院”と呼ばれる、夫に先立たれた女性や働き場のない娘たちのための作業所)と孤児院を開設しました。子どもたちは神父にとてもなついていて、司祭服にはしがみつく子どもたちの青バナがいつもこびりついていたそうです。救助院では、神父の呼びかけに応えてこの施設に集まった女性たちの多くが起居をともにしながら、孤児の世話をしたり、神父の指導のもとに畑を耕し、そこから収穫した綿花や小麦を、神父が購入した各種の機器を用いて加工し、織布、編物、そう麺、マカロニ、パン、醤油などを製造しました。こうして製造されたシーツやハンカチや下着、マカロニ、パンなどは長崎市内の居留地に住む外国人向けに、そう麺や醤油などは日本人向けに販売され、彼女たちの生活や活動の支えとなっていきました。今日でも「ド・ロさまそうめん」の名で、当時のままの製法でコシの強い麺が作られています。
 自分の土地を持たない小作農家の次男、三男らのために、土地を安く分譲させてあげようと、私費を投じて買い求めた山林を先頭に立って開墾し、農耕技術の指導や新しい農作物の紹介なども行いました。あるときは希望者を募り、田平や平戸方面に土地を買い求め移住を斡旋することもしました。彼が外海の気候等を熟慮して設計し、1882年に完成した出津教会と、1893年に完成した大野教会は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成要素にもなっています。
 彼の生き方は、イエスの愛の生き方に倣うものでしたが、彼自身もまた多くの人の生き方に影響を与えていきました。外海地方からは、2人の枢機卿を始め多くの司祭や修道女・修道士が出ているのですが、それは明らかにド・ロ神父の影響と言えるでしょう。